未成熟の処方箋としての母性と父性

エーリッヒ・フロム「愛するということ」は人が人を愛する技術について書かれた著作であるが、この本が非常に名著だった。この本を読んで人の成熟は父性と母性の2種類の愛によって構成されてゆくのではないかということを気づいた。このことから日常で自分あるいは他人の成熟度の処方箋/リトマス紙としての使用を提案したい。

著書の構成と主張

 まず構成は以下のようになっている。

  1. 愛は技術か
  2. 愛の理論
  3. 愛と現代西洋社会におけるその崩壊
  4. 愛の習練

 かいつまんで説明すると、まず愛が技術かという点についての断定。次に親子愛や兄弟愛などから考えられる理論について説明、加えて西洋社会は愛が欠如していく方向に向かっているとの批判。最後に愛するには習練が必要であるという具体的な処方箋ではなく、やや抽象的な内容で締められている。いくつか引用をする。

このように、人間のもっとも強い欲求とは、孤立を克服し、孤独の牢獄から抜け出したいという欲求である。この目的の達成に全面的に失敗したら、発狂するほかない。なぜなら、完全な孤立という恐怖感を克服するには、孤立感が消えてしまうくらい徹底的に外界から引きこもるしかない。そうすれば、外界も消えてしまうからだ。

エーリッヒ・フロム. 愛するということ 新訳版 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.166-169). Kindle 版.

なぜ愛が存在するかについての洞察。究極的には人は人類と一体となりたいという欲望を持っていて数ある宗教や哲学も結局のところこれについての応答なのかもしれないと感じた。

たいていの人は、集団に同調したいという自分の欲求に気づいてすらいない。誰もがこんな幻想を抱いている――私は自分自身の考えや好みに従って行動しているのだ、私は個人主義者で、私の意見は自分で考えた結果なのであり、それがみんなの意見と同じだとしても、それはたんなる偶然にすぎない、と。

エーリッヒ・フロム. 愛するということ 新訳版 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.239-241). Kindle 版.

現代では SNS などによってさらに顕在化された実はほとんどの人は自立して物事を考えていない場合が多いのではないかという事象を言い表している。一体ではなく、自を損なって同調する行為は愛から遠いものであるとフロムは西洋社会を批判している。生きれいれば今の SNS もそう批判したかもしれない。

成熟した人間は、いわば母親的良心と父親的良心を併せ持っている。母親的良心は言う、「おまえがどんな過ちや罪をおかしても、私の愛はなくならないし、おまえの人生と幸福にたいする私の願いもなくならない」。父親的良心は言う、「おまえは間違ったことをした。その責任を取らなければならない。何よりも、私に好かれたかったら、生き方を変えねばならない」。成熟した人間は、自分の外側にいる母親や父親からは自由になっており、自分の内部に母親像・父親像をつくりあげている。

エーリッヒ・フロム. 愛するということ 新訳版 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.725-730). Kindle 版.

著者は愛の理論について親子愛、異性愛、兄弟愛、自己愛、神への愛に分けて語っているが、自分は、全てはこの母性愛と父性愛に集約できるのではないかと気づいた。そして、成熟過程における父性愛と母性愛の環境によって、人の成熟の度合いは左右されるのではないかと着想もした。愛するという行為自体についても幸福に働きかける母性成長に働きかける父性で語れるのでないかと思った。次で詳しく説明する。

人の成熟は母性愛と父性愛で語れる

 簡単にいうと母性愛とは無償の愛、一方父性愛は期待に答え、自分の義務を果たし、自分に似ているから与えられる条件付きの愛のことだ。連想されるワードは、母性愛の場合、「受動的、自然、大地、海」、父性愛は「人工物、法と秩序、規律、冒険、理性」といったところだろう。(同じように連想して欲しい)

 私はこの母性と父性があらゆるものを分割すことのできる小道具だと気づいたのだけれども、それについては今回は深くは述べない。人の成熟と父性と母性を結びつけるために、心理学の青年期の自己同一性獲得の例で語りたい。

 自己同一性(アイデンティティ)は青年から、危機と傾倒によって得られることが知られている。傾倒が足りないとモラトリアム、危機が足りないと親の価値観で生きる早期完了と呼ばれる成熟過程になる。両方とも足りない場合は流れに身を任せるだけの人間になる。この危機と傾倒が母性と父性に結びつくことに私は気づいた。危機とは母親以外からは無償に愛されないと気づくこと、傾倒とはそれがなくては父親に認めてもらえないものと言えるのではないか。これで完全に納得してもらえるかはわからないが、外部の父母から脱出して、内部に父母を持つ行為がアイデンティティの獲得であると述べれば、反論は難しいはずだ。

 父母性が欠乏したり、逆に過剰すぎたりした場合、人は神経症になったりや未成熟な状態に留まってしまい、愛する技術を習得できないのではないかと思う。もちろん父性愛や母性愛は必ずしもそのまま母父から受けるものとは限らない。父から母性愛を与えらえることもあれば、友達に父性愛を与えられることもあるだろう。

母性愛と父性愛で成熟を語れると何が嬉しいのか

 この本で愛する技術を習得するにはまず人として精神的な成熟が必要であると述べられている。 成熟とはナルシズムからの脱却であり、物事をありのままに見て、その客観的なイメージを、自分の欲望と恐怖によって作り上げたイメージと区別する能力を得ることであると述べられている。

 では、どうすればナルシズムから脱却できるか。著者はこれについての考えさせるために処方箋をあえて、書いていないように思えるので、私は一つの処方箋を提案したい。 その処方箋とは他人からの父母性愛に敏感になること自身の父性と母性の声をよく聞くことの2点だ。

 言ってしまえば特別なことではなく、最近太ったようだから食生活を気をつけたらと言ってもらったりすることに気づいいたりとか、コンビニでアイスを買うときにこの糖質は必要だろうかという内なる父性に耳を傾けるとか。そんな程度のことの日常の積み重ねのことを言っている。  これらの日常の気づきによって、自分の母性と父性に客観的に向き合い、他人との受動的、能動的な母性と父性で働きかけについて、ある程度に省みることもできるのではと思う。いわばリトマス紙だ。

処方箋とリトマス紙。これは嬉しい。未熟な精神性を鍛える上で参考になるだろう。

まとめ

 一体となりたい欲求への解消手段が愛である。これはかなり、人についての根本的な事柄なので、誰しも真剣に考える必要があると思う。SNS もナショナリズムによる全体主義も、イデオロギーのほとんども、人間の悩みはだいたいこれで説明できる。今回は成熟について語ってみた。リトマス紙としてあるいは、処方箋として使ってみて欲しい。 もし興味が沸いたら、こうした観点で「愛するということ」をじっくり読んでみても欲しい。

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